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何だかんだで、元婚約者である彼との別れは先延ばしになってしまっていた。
新たな討伐先で思いのほか手こずる日々が続いたのも理由のひとつだ。
機構の想定よりも潜伏していたゾンビが多く、私たちだけではあちこちから湧いてくるゾンビの群れ全てに対応しきれなかったのだ。
しかも、それらは今まで相手にしてきた奴らを上回る体力を持っていた。攻撃を受けきったり、防護服を歯で引きちぎる個体も現れた。
徐々に一般戦闘員の中にゾンビ化しだす者たちが出てきて、別の地へ行っていた他のキョンシー班も急きょ駆り出される事態となった。一松たちの存在がなければ、収束できていたか分からない。
不測の事態はたまに起こるが、今回のように戦闘員がゾンビ化してしまった例はなく、私は身も心も疲れきって長い遠征から帰ってきた。

キョンシーラボに着いたのは真夜中だった。
一松との会話もなく装備を脱ぎ捨て、一直線に自室のバスルームにこもった。お湯が溜まりきる前に、浴槽の中に座り込む。
やられたのは名前も知らない戦闘員たちだった。
けれど仲間のゾンビ化は、知らないゾンビを殺すのとは明らかに違う、大きな喪失感があった。
防げなかったことが心底悔やまれる。次は絶対にない。それに…
やはり、ゾンビは全て倒すしかない。
ここ最近の新たな戦いで、私は決意していた。
この先ゾンビがどれだけ現れようと、私は奴らと戦い、人間を守る存在でなければならない。生き残った人々に少しの不安も与えず、安心して暮らせる日常を取り戻す。今の私の仕事はそういうものだ。
そのためには、ゾンビとなった彼も…
ちょうどお湯の溜まった浴槽に一度頭まで潜り、勢いよく水面から顔を出す。
心は決まった。

お風呂から上がると、夜中だというのに一松は珍しくまだ起きていた。
広いリビングのソファーで爪にやすりをかけていて、私が部屋から出てきたのに気がつくと、意外そうな顔で「起きてたの」と言った。
爪の手入れなんか、一松がリビングでやっているのを見たのは初めてだ。私の様子を気にしてくれていたのだろうか。
聞いてもどうせはぐらかされるだけなのでそこには触れず、一松に先ほどの自分の決意を伝えた。
時間が取れれば明日にでも行こうと思う、と言うと、彼らしい「そう」という短い返事が来る。

「後悔しない?」
「しないよ、しないような別れ方する」
「具体的には」
「えー、ハグとか?」
「杏里急にIQ落ちた?」

死にに行くの、と言った一松に笑って、隣に座る。

「でね、一松にも一緒に来て欲しい」
「何で」
「んー、私がハグしたら止めて」
「マジでIQ落ちたの?シャワーで流してきた?…まあ、別にいいけど。ヒマなら」
「ありがと」

断られるかと思ったが、一松は付いてきてくれるようだ。
乾いていない髪をタオルでかき回しながら、手入れ中の一松を横から覗き見る。
紫色をした小指の爪の端に、赤黒い色がほんの少しこびり付いていた。
一松もこの手で人間の暮らしを守ってくれているのだ。急に愛おしくなって、その手を取る。

「え、な、何」
「いつもお疲れ様、一松」
「は?マジで急に何」
「偉いぞ一松」

両手でぎゅっと握りしめ、自分の額に当てる。この手が人間に向けられていないのを感謝して。

「一松の存在ってなかなか奇跡だよね」
「は、奇跡ねえ…俺は神様の皮肉だと思ったよ」
「じゃあ私は皮肉に救われてるんだ」
「…もう寝たら。ずっと忙しかったんだし、休みなよ」
「一松は?」
「これ終わったら寝る」
「じゃ私もそれまでここにいる」

一松はもう何も言わなかった。
しゃりしゃりと爪を研ぐ音に耳を傾け、私は明日終わる命のことを考えた。
どこでどう私たちの運命は変わってしまうのだろう。私は人間のままで、一松と彼はゾンビとなり、しかし一松はキョンシーとして蘇った。
神様の皮肉と一松は言った。
私は寝る前にもう一度、その言葉を思い出した。
皮肉でも何でもない一松に救われているのだと、そう言えば良かった。自分の存在について、一松はいつもどこか諦めたように語ることには気づいているのに。
そうやって悶々としていたせいか、あまり眠れはしなかった。



翌日、私の申し出はすぐに受け入れられ、彼が捕らわれている施設の一室で最後の別れをすることになった。
室内に入るのは私と一松だけだが、機構の職員が数名、防弾とマジックミラーの性能を持ち合わせた窓から常に監視を行なっている。
しかし、想像していたより緩い空気の現場だった。研究員たちも慣れているのか、時折り仲間と談笑すらしている。彼らが緊張したのは、私が一松を伴って現れた時くらいだった。
ゾンビとなった彼の足には鎖が繋がれており、その先は出入り口から一番遠い、部屋の隅に固定されている。万が一彼が逃げ出そうとしても、部屋の真ん中で止まるような長さになっていた。

「入室した後は、ゲートのある壁から離れないで充分距離を取ってください」

研究員から注意を受け、一松と共に最初のゲートを抜けると、次が開く前に後ろで閉じられた。
セキュリティがさすがにしっかりしている、などと今更なことを考えながら、開いたゲートへ足を踏み入れる。
蛍光灯の味気ない光に照らされた室内。ゾンビ独特の腐臭と、鎖を引きずる音。
より間近で彼を見るため、壁伝いに移動する。
私たちの存在に気付いた彼は、唸り声を上げながらこちらに足を引きずってきていた。足枷をされているのを知覚できないのか、途中で前に進めなくなっても目の前の獲物を捕らえようとしていた。
私は言われたとおり壁沿いに佇んだまま、こちらに歯を剥き出し手を伸ばす彼を見た。
それは、私の知っている“彼”ではなかった。
生身のそれと対面して、はっきりと分かった。ゾンビ化は理性が無くなった状態、などと良く言われていたが、あれは少し正しくはなかった。
腕を斜めに振り上げては下ろし、上体を前に突き出すように傾け、感情のない唸り声を上げながら無表情を作る。その筋肉の動かし方は、私の記憶にある人間のものではない。
これは外側だけ人間を模した、中身は全く別の何かだ。
私の知っている“彼”は、とっくの昔にこの世から消されていたのだ。
しばらくそれを見つめて、私はふうと息を吐いた。

「…もう、大丈夫です。終わりました」
『終了してよろしいですか?』

スピーカーの声に応えて頷いた。
ゲートを開きますのでそのまま静かにお待ちください、と音声が流れる。

「ありがとね、一松」

一松は部屋に入ってから、ゲートの前で身じろぎもせずに立っていた。しばらく私を見据えてから、無言の頷きを返された。
私もゲートの前で待っていようときびすを返した時だった。
バチン、と一際大きな音が鳴り響いた。
反射的に振り返る。
ゾンビの鎖が根本から断ち切れていた。
枷の無くなった長い鎖は、耳障りな音を立てて弧を描くように床を滑っていったが、ゾンビの足止めにはならなかった。
それは驚くほどの速さで、私の目の前に迫っていた。
強い腐臭が目を眩ませ、重く鋭い痛みが首筋から身体の内側へ侵食を始める。
ゾンビの頭が、その体から飛んだ。チカチカする視界の中で、一松の伸びた爪が赤黒く染まっているのが見えた。

「杏里!!」

内臓が、脳が、沸き立つように熱い。彼もその時はこうだったのだろうか。一松も。

「おい!!救護班呼べ!!早く!!」
『わ、分かった…!ま、待っててくれ!』
『いや待て!戦闘班の方が』
『いいからどっちも呼べ!』

スピーカーから言い合いとガチャガチャした雑音が聞こえる。向こうも混乱しているらしかった。自分の陥った事態が大変なものなのだと、麻痺しつつある頭で思った。
舌打ちを私の耳が拾う。
いつの間にか床にくずおれている私の体が起こされ、一松の顔がぼんやりと目に入った。

「役立たず共…」
「…いち、まつ…」

自分の声は震えていて、少ししゃがれていた。終わりが近いらしかった。

「喋んな。今、今どうにかする…」

一松は液体の入った小さな瓶を持っていた。
ここに入る時に身体検査を受けたはずなのにどこから、と小さな疑問がわいたが、焼けつくような痛みがそれにとって変わった。

「…いちまつ、あのね…」
「喋んなっつってんだろ!時間がない…あいつらが戦闘班連れて来る前に」
「ぞ、ゾンビになったら、こ、ころして」

一松は空の注射器も持っていた。そこへ小瓶の液体が吸い上げられていく。

「いちまつは、人間をまもって」

腕に針が刺さるような感触がしたが、全身に回っている痛みのせいでよく分からなかった。

「……人間とか、どうでもいい」

スピーカーからか、またガヤガヤとした音が大きくなった。ゲートが開いたみたいだ、だんだん閉じていく意識の中で冷静にそう思う自分がいた。私はまだ人間でいるらしかった。
背中に当たっていた固い感触がなくなる。体が持ち上げられたようだった。
全身がだるさに覆われていた。そのだるさに任せてまぶたを下げた。眠る時が来たのだ。
触ったら殺すぞ、と一松が言った気がした。